kukkanen’s diary

障害年金で暮らす片づけられない女の日記

発達障害とマイルドヤンキー

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「桜フラペチーノで春を感じるスタバなう」と投稿したいところですが、精神科通院の帰り道。賞味期限が切れた人生をこのまま続けることにため息しか出ません。

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少し前にふとこんなことを思いました。

主治医から発達障害という診断を告知された時に「天才と呼ばれる科学者や芸術家にも発達障害を疑われている人がいるんですよ」という言葉が添えられました。

健常者がある分野で類をみない才能を発揮する確率と、発達障害当事者がそうなる確率の統計データがあるのかどうかも知らないけれど、前者が0.001%で後者が0.002%だったとしてもそれは意味のあることなのでしょうか?「世の中で優れていると評価される人の中にもたまたま発達障害者がいた」というだけにすぎないのではないでしょうか。

ADHDという障害属性が認められても、抑うつ状態という病名がついても、私が人間として他の人より劣っているという事実は変わらないわけで、それをふまえた上で生きていくことを考えなければいけません。

昨年話題となったこの本を読みました。

ITが国内で急速に発展したゼロ年代に最も多感な10代を過ごしていながら、また、無料でネット検索できる環境が物心ついたころから整っていながら、彼らに未知のことを調べようという意欲、知的好奇心のようなものはそれほどありません。PCを使わずケータイですべて事足りると主張する人が多い(そしてケータイでの検索もあまりしない)ことからも、それはうかがえます。

彼らにとって選択肢が多いことは苦痛でしかなく、だからこそ、数は少ないながらも密なつながりを持つ地元の友達同士で、深い絆を育むのでしょう。「いつメン」以上に人間関係を広げたがらないのは、そのためです。

「知らないものは、欲しがらない、欲しがれない」。それがマイルドヤンキーの本質と言えるでしょう。 

マイルドヤンキーというと向上心がないDQNな人達といった蔑む対象として語られがちですが、著者の原田曜平氏はゴンドリエーレのメンタリティにもふれています。

毎日、ヴェネツィアの同じルートでゴンドラを漕ぐ作業は、それに乗る金銭的余裕のある観光客にとって退屈なものに映ります。ですが、父そして祖父と代々その仕事を引き継いでいる彼らにとって、それは幸せな日常なのです。階層が固定化したヨーロッパ社会では自分に与えられた暮らしを楽しむことこそ、心平穏に生きる術だということです。

私もそうなのですが、はてな村やTwitterで出会う発達障害の人達は総じて、自分のスペックでは手に入れられなかった、あるいは失ってしまったライフスタイルへの執着が強いように見受けられます。

障害特性としての不注意や認知機能の低さなどは、実はマイルドヤンキーと呼ばれる人達とスペック的にはさほど変わらないかもしれません。辛抱が足らず職が長続きしなくても、高校を中退してもマイルドヤンキーは幸福度が高いのに、似たような状況で発達障害当事者は大きな困難を感じます。

それは、「本当はこんなはずではなかったのに」「もっとより良い生活があるのに」という気持ちが強いからかもしれません。

分不相応な夢を見続けることにより、自分のプライドを保つことに疲れ果てた今、マイルドヤンキーやゴンドリエーレの生き方から学ぶこともあるかもしれないと思いました。

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